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WS 告知です
スズキシローWSの告知です 


【 期間 】1月8日〜1月12日 5日間
【 時間 】18:00〜22:00
【 参加費 】1日 2.000円 (5日間 7.000円) 
     ※ 参加初回に徴収いたします。
【 定員 】15名 (受付順)
【 場所 】池袋センティオ
【 問合 】katorikikaku@gmail.com 
          http://ksh21cz.blog108.fc2.com/



俳優やダンサーを素材にして様々なメディアが作られます。

舞台作品、即興作品はもちろん。祭事や教育、映画やラジオ、ボリュームの差こそあれ、列挙したら枚挙に暇がありません。

それぞれ細かく分化され専門化されたカラダが、提示され利用されていますが、暴力的に大雑把にいえば、演劇は言葉を扱う。舞踊は言葉を扱わない。

というように振り分けられているように感じます。


ですがワタシは(自身は演劇から舞台やパフォーマンスに触れていったのですが)
そのときに常にいわれる。演劇=言葉を使う=具体的 ダンス=言葉を使わない=感覚的という概念が腑に落ちませんでした。(もちろんいまも!)

逆説的であまのじゃくな言い方かもしれませんが、肉体の背景に秘しているものを見つけたとき、演劇こそ感覚(肉体)ダンスこそ言葉(具体)じゃないかと憤っていました。(沢山の芸術家達に出会う中で、いまはそういう区別化への憤りはなくなりました。反省)

その時に、自身を、


1.舞台に立つ目的をもった「演劇人」以前の

2.モノガタリを扱うあるいは言葉を扱う「俳優」以前の

3.手振り足踏みで他者と関わる「わざおぎ」以前の

4.表現という目的を手放した「肉体」以前の・・・・

 

と一旦遡ってアソバせてみたくなったのです。

ワタシにとってはとても楽しい作業でありました。ワタシのカラダ、カラダそのもののことだけ考えていればよかったし、結果、身体あるいは肉体に纏わるパフォーマンスを見るときに、こだわりなく、演出、振付、作家、振り、言葉、デザイン、照明、音響・・etc

と、いわばカラダを見つめる側のパートを、他の要素を尊敬をもってもっと鮮明に理解できるようになりました。

 

舞台表現自体は複合的な芸術で、沢山の要素が一つになって、一つの「美」の形として形成、提示されます。

ですが、個の人間がそのことを全て扱うのは至難の業です。それぞれのパートが分をわきまえて、作品を完成させなければなりません。互いに専門的であるべきです。

そして、創作の現場に挑む前に直接カラダを扱うパフォーマーが、専門分野に自身を圧縮し準備していくということは、「カラダ」のあり方や存在や「カラダ」を遊ばせることにこだわったりすることになるのではないかと思います。

 

 

このワークショップでは、解釈とか振付以前、創意以前の「カラダ」を皆さんと考え研究してみたいのです。

もちろん自分をどうみせるか、どう見られたいか、ということを表現することは大事なことです。ですが、それは理解したうえで、いったんそれを投げ打って前記の3.4.のようなことからはじめます。

 

演ずるということは一朝一夕で完成をみたり、スキルアップするというような類のものではありません。このワークショップで演技術が手に入るということではありませんが、必ず、自身に元来秘されているカラダの魅力に出会うことができると思います。

簡単なリラクゼーションのようなことからはじめます。たくさんの人とお会いできることを楽しみにしています。



以下 ワークショップの《 内容詳細 》です。



1「表現するという意識から一旦離れてみる」
「ワタシ」が演技をする、「ワタシ」が踊る・・・・「ワタシ」という意識から一度カラダを引き離してみます。
こうでなければならない、こうあったほうがいいと、無意識に蓄積してしまっている身体概念を捨ててみます。

2「カラダを不安な方へ不埒な方へ放ってみる」
空間に立つ。観客の視線に晒される。演じる。というのは得てして緊張と羞恥が生じます。ですが、そういった心やカラダの不均衡な状況を恐れる必要はありません。そこから発見の一歩を踏み出します。
もともとカラダは荒唐無稽。勇んで不均衡な様態にカラダをおいて、豊かなふり幅の中でカラダを遊ばせてみます。

3「外にあるものに感覚の触手を広げてみる」
カラダは常に外的要因に晒され、脅かされています。ですが、カラダの外側に何があるのか、見られているということはどういうことなのか、また、どういった脈絡でカラダがそこにあるのか、まずは気づき認めることで、恐れることなくカラダを取り巻くものに関わることができます。

4「空間にかかわる他者にかかわる」
「身の置き場がない」というような事態は心的な要因で生じています。カラダそのものは元来、そのような事態に陥ることはありません。
演劇空間や一回的偶然的なパフォーマンスの現場では、むしろ、場の流れを知ること。己ではなく他者を知ることが、
必然的に迫真性に結びつきます。
空間や相手役に真摯に向き合うことが、自身の存在のあり方をより豊かにしていくはずです。

5「空間をうけいれる カラダをうけいれる」
カラダをとりまく事態に応化していくことを当然と引き受けつつ、カラダの極相を発見します。
他者と関わる。言葉を扱う。呼吸を扱う。会話を扱う。空間を時間を引き受けていく・・・・
「カラダ」にまつわるものを輻輳的にあつかっていくと、カラダそのものに事件が起こります。
その事件を、カラダの発見として採取し提示してみましょう。
その自然生じ出てきた様態こそが、その人の「カラダ」の表情になっているはずです









スズキシロー

| suzuki | 13:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
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